小学校3年生の頃、父の会社の旅行で、鹿児島・知覧にある「知覧特攻平和会館」へ連れていかれた。
そこでわずか9歳の私が見たものはーー若くして、笑顔で祖国のために飛び立っていった『神風特攻隊』の軌跡。
あまりの衝撃に言葉を失い、そこから狂ったように図書館で特攻隊の本を読み漁った日々。
この知覧・特攻平和会館へは、もう5度ほど訪れている。
今回は、第二次世界大戦末期の沖縄戦で、飛行機もろとも敵艦に体当たりをした陸軍特別攻撃隊員たちの
「遺書」「遺品」「記録」
など様々な資料を展示している『知覧特攻平和会館』について、ご紹介したいと思います。
一度は訪れたい!鹿児島「知覧特攻平和会館」
家族やパートナーと旅行に行くなら、是非とも訪れて欲しいのが、鹿児島にある「知覧特攻平和会館」。
第二次世界大戦の歴史資料会館は、広島や長崎にある原爆資料館が最も有名ですが、ここには、知覧から飛び立っていった「特別攻撃隊」についての資料が展示されています。
学校では学ばない?特別攻撃隊とは?
画像引用元:神風特別攻撃隊 - Wikipedia
昭和生まれの私は、小学校や中学校の夏の特別授業で「第二次世界大戦」の事を学ぶ機ことはありましたが、それでもあまり詳しく「特別攻撃隊」について学ぶ機会はありませんでした。
(最近では、教育現場において、少しずつ風化しつつあると聞きます。)
原子爆弾はどこに落ちたのか。何故、そのような事が起きたのか。当時、日本はどのようにして戦っていたのか。
▼1941年、12月8日。日本軍がイギリス領マレー半島とハワイ・真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まりました。
しかし、その後の海戦でアメリカ軍に軍事力で逆転された日本軍。
軍事力で敵わないと判断した結果、特攻による「体当たり攻撃」をするしかないと考え、1944年10月、神風特別攻撃隊が編成されました。
第二次世界大戦時、アメリカの猛攻を前に敗退を重ねた日本軍が、反撃の手段として『航空機や魚雷に人員を乗せたまま敵艦に体当たりさせる攻撃』を組織的に行わせた部隊のこと。
どうしてなのかは分かりませんが、この「特攻隊」について、あまり授業で学ぶことはありませんでした。(苦肉の末、始めたもののその後敗戦。となったからなのか…。)
しかし、わずか20歳前後の少年たちが、片道分の燃料を積んで、敵艦へと体当たりした事は、まぎれもない事実。お国の為にと言いながら。
終戦は80年前のこと。今の世代の子供たちにとっては大昔のことのように感じるでしょう。
二度と繰り返してはいけない。という事は、伝え続けたいものですね。
知覧は、本土最南端ということで、もっとも多くの特攻部員がここから出撃しています。
「知覧特攻平和会館」の見所
※写真協力:鹿児島県南薩地域復興局
それでは実際に何度も訪問した私の、「知覧特攻平和会館の見所」を紹介したいと思います。
僅か20歳前後の少年たちの心中
この知覧特攻平和会館は、広島や長崎の原爆資料館とは違い、遺書や手紙、辞世の句などが展示されています。
原爆資料館は、「どれほどの被害があったのか。」を目の当たりにすることになりますが、ここの特徴は「どんな想いを残したのか。」ということに圧倒されることでしょう。
これが、本当にわずか20歳前後の少年が書いたの!!?と驚くと思います。
母親・父親へ向けた手紙、恋人・家族への手紙。わたしには到底書けない文章で、いかなる覚悟があったのか。を感じさせられます。
壁一面に貼られた写真・遺品の数々
※写真協力:公益社団法人 鹿児島県観光連盟
館内に入ると、まず目に入るのが壁一面へ展示された1036名の特攻隊員たちの遺影。
平均年齢 21.6歳(17~32歳)という若さで、敵艦へと体当たりしたなんて信じられません。
どんな想いで、この写真を撮ったのだろう。と想像せずにはいられないでしょう。
三角兵舎
※写真協力:鹿児島県南薩地域復興局
こちらは復元されたものですが、当時空襲を避けるために、飛行場から少し離れたところに造られた建物。
特攻隊員たちは、出撃までの数日間をここで過ごしたとのことです。
ここで、あの展示されている手紙を書いたのか。。と思うと、込み上がってくるものがあります。
「知覧特攻平和会館」の施設情報
アクセス・場所
鹿児島中央駅からは、バスで1時間20分ほど。(直通)
JR指宿枕崎線を使って、乗り換えても1時間ほどはかかるので、私はいつもレンタカーを借りています^^(時期によるが、45分ほどで行けます。)
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<住所>
鹿児島県南九州市
知覧町群17881番地
料金・開館時間
<開館期間>
1月1日から12月31日まで営業(年中無休)
<開館時間>
午前9時から午後5時まで。
(入館は午後4時30分まで)
<入館料>
1. 個人/大人500円 小人300円
2. 団体/大人400円 小人240円
(団体は、30名以上、小人とは小・中学生)
一度では足りない。「特攻隊」に魅せられた話
それでは、私が個人的にこの知覧特攻平和会館へ行き、何を感じたのか。を紹介していきたいと思います。
初めての訪問
※写真協力:公益社団法人 鹿児島県観光連盟
私が、初めてこの知覧特攻平和会館を訪れたのは、小学校3年生の時でした。
父親の会社の社員旅行で、鹿児島ツアーに行く事になり、その最終日がここだったのです。
当時、「はだしのゲン」(著:中沢啓治)は全巻読むほど興味があった私ですが、特攻隊の事は全く何も知らない状態。
父や母に聞いても、「聞いた事あるなぁ。」くらいの反応で、同じくツアーに参加した多くの人がそんな感じだったのを覚えています。
入館するまでは、ワイワイ言いながら向かった私たちですが、中へ入ると誰も何も口にすることはできないほど衝撃を受けました。
まず目に入ったのは、壁一面にずらーっと貼られた特攻隊員の遺影。
その下には、出撃が決まった志願兵たちがそれぞれ、家族や恋人へ向けた手紙など遺品の数々。
手紙はあまりにも達筆で、小学生の私には完全に読み取れない物もありましたが、目に飛び込んでくるのは、
「お母さん、、、」
の文字。
多くの少年が、最期の手紙を残す相手は、お母さんが多かったのがすごく印象に残っています。。
(当時、私はプチ反抗期で母親が疎ましかったのですが、あぁ。なんて贅沢な悩みなんだ。と感じたのを覚えています。)
会社のツアーだったこともあり、時間が限られていたのでじっくりと館内をみることができず、消化不良で後日、再び家族で訪れました。
どの隊員も、屈託のない笑顔で写真に写っていて、何故。こんな笑顔でいれたのだろうと、こんなにも若いのに何故、自分を犠牲にできたのだろう。と涙が止まりませんでした。
戦争に反対するものは、非国民と罵られた時代。どんな想いだったのでしょう。
実話を基にした映画「月光の夏」
2回目に家族で訪れた際、館内の入り口に飾られたグランドピアノがあったのですが、そのピアノにまつわるエピソードが、私と母をさらに虜にさせました。
そのピアノは、太平洋戦争末期、出撃前の特攻隊員が佐賀県鳥栖市の学校を訪問し、ベートーベンの「月光」を演奏した。という逸話に感動された音楽家が会館に寄付したというもの。
~その映画と小説がコチラ☟~
▼実話ベースの小説「月光の夏」の映画版
▼小説版「月光の夏」
この映画を観て、特攻隊員が最期に弾いたであろうベートーヴェンの「月光1・3楽章」をどうしても発表会で弾きたいと、先生に頼み倒したのを今でも覚えています。
このお話は、「実話を基にしたフィクションだ」と言われているのですが、諸説あり、出撃したがトラブルで戻ってきた直後に戦争が終わったため、戦死せず生き残った事を隠すため(遺族への配慮)フィクションにしているのではないか。
などと言われている様です。
真相は、どうなのかは分かりませんが、いざ出撃し、戦死するかもしれない!と思うと、私ならば、どれだけ遠くてもピアノを弾きに走ったかもしれないなぁ。と思います。
何より、この映画・小説、共に一度は読んで(観て)みて欲しいので是非!知覧に行く前に、観てみてくださいね^^
まとめ
私の祖父は、ぎりぎり戦争参加した世代ですので、じっちゃんからよく聞かされていました。
「空襲警報が鳴って、逃げていたら向こうの方で大きな花火がどーーーんとゆったんや。」
ボケても、忘れる事が無かった話なので、何十回も聞かされたのが忘れられません。
戦争が残したもの。時代とともに風化しつつありますが、決して忘れてはいけないという事を、我々が次世代へ繋いでいきたいものですね。
鹿児島の知覧特攻平和会館。人生観がかわるかもしれません。是非、足を運んでみてくださいね^^